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失敗の教訓 1916年の企業統治改革

『郵船増配期成同盟』の活動が、日本郵船相場を特別なものにしていた。莫大な利益を内部留保する郵船の経営陣に対して株主たちがそれを不当だと主張し、大幅増配による利益配分を要求する運動のことだった。(中略)郷誠之介(東京株式取引所の理事長)の郵船増配期成同盟の会長就任は物議を醸した。
大正5(1916)年も師走まであと残すところ1週間となっていた。(中略)ついに日本郵船の重役会が増配を決定した。1,890万円の繰越利益に対して2割8分の配当を行うこととなったのだ。これを受けて郵船株は暴騰した。それが株式市場全体の騰勢に油を注いだ格好となった。
ただ兜町では、織田昇次郎(古参の仲買人)が郵船株の怒涛の買いに利食いの売りを次々ぶつけて行く姿が話題になっていた。(中略)市場は動揺を見せた。(中略)師走の13日、相場に決定的といえる悪材料が出る。(中略)誰も彼もが売りに殺到した。
波多野聖 著『銭の戦争』ハルキ文庫(2014)
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2016年8月10日(水)アナリスト工房
(2016年8月11日(木)編集)

世界初の株式会社は、オランダのアジア貿易を手がけるオランダ東インド会社(1602−1799)。ジャワ島を拠点に香辛料・茶・綿織物などの貿易事業を営む同社は、多数のオランダ商人たちの出資により17世紀初めに設立されました。
出資者の商人たちへ交付された「出資証券」が、いまでいう株式です。オランダ東インド会社の出資証券の持ち主には、同社の利益が分配されました。その証券は他人への売買も可能で、現代の株式とおおむね同じ仕組みです。
以後、会社の運営方針と稼いだ利益の分配をめぐり、運営を担う会社側と資金出資した株主との間で、し烈な攻防の歴史が始まりました。

過度の増配を迫り、株価をつり上げたうえ、売り逃げた元祖アクティビスト

わが国で初めて注目を浴びた会社と株主のバトルは、1916年の日本郵船株の増配運動です。
第1次世界大戦(1914−1918)の特需景気のなか、旺盛な海運需要と運賃の値上げでボロ儲けした同社に対し、仲買人(証券業者)の織田昇次郎を中心とする投機目的の株主たちが大幅増配をしつこく要求。上ぶれした利益の大半を社内に蓄えたい郵船の経営陣との間で、激しい攻防戦が繰り広げられました。
もの言う株主がキャッシュリッチ企業へ株主還元の強化をうるさく迫るのは、21世紀の現代と同じ現象ですね。

結局、そのときの日本郵船は繰越利益(それまで稼いだ利益のうち株主へ配当せず社内に蓄えてきた内部留保)のなんと2割8分も配当するはめになりました。
キャッシュリッチ企業がもの言う株主に屈しがちなのも、アクティビスト(もの言う株式投資家)がはびこる現代と共通です。

とはいえ、一般に健全な企業の資本の大半が繰越利益なので、それを支払配当の原資にすると郵船の資本は大きく損なわれます。結果、増配決定時に一時急騰した同社の株価は、たちまち利食いの売りに押され急落に転じました
株価の割高度をみる指標PBR(=株価/資本)に沿って説明すると、過度の増配によりその分母(資本)が急減する一方で市場では分子(株価)が急騰したため、著しく割高となった郵船株は売り浴びせられたのです。

当時の日本郵船の利益分配をめぐる騒動は、冒頭で引用した歴史小説に舞台裏の臨場感とともに生々しく描かれています。
まず、郵船へ大幅増配を働きかけたもの言う株主(織田昇次郎)が増配決定直後に利食い売りへ転じたのは、現代のアクティビストの典型的な投資手法とまったく同じです。
しかも、その株主(織田)は後に取引所(「東京株式取引所」はいまの東証)の理事に昇りつめたとんでもない史実をつけくわえておきます。

いまのガバナンス改革も株主還元重視へ。利益の範囲での還元が大切

また、取引所がもの言う株主の運動に一役買っていることは、現代の企業統治改革の指針「コーポレートガバナンス・コード(東証1・2部上場先に2015年6月から適用)」がもの言う株主の意向を踏まえた東証によって定められた点とこれまた共通といえましょう(*、2つのコードは誰のため? Activist)。
取引所の本来の役割は、資金を調達する企業と運用する投資家を結ぶこと。しかし、昔もいまも一方的な運用サイド偏重の実態は明らかですね。

会社の持続的成長と企業価値向上を目的とするコーポレートガバナンス・コードに基づき企業統治改革が推進されるいま、市場では会社の収益性指標ROE(資本利益率)と株主還元(配当と自社株買い)の姿勢が重視されています。

うち収益性指標のROEは、コードを推進した"伊藤レポート(2014年8月経産省公表)”の主張する8%超を踏まえ、市場参加者がその目標ラインを強く意識しています。
一方、2015年度の東証1部上場企業の平均ROEは、円安の強い追い風を受けたにもかかわらず7.5%と目標未達。しかもROE10%超の少数の優良先が平均水準を押し上げていることから、過半数の企業が平均ROEを下回るのが実情です。
そもそも、パリ経済学校教授トマ・ピケティ氏のベストセラー『21世紀の資本』によると、世界のr(ROEに相当)は2千年の長い歴史を通じて年4−5%台とおおむね一定。日本企業への8%超のROE目標はまったく現実的ではない!

ROEでみた企業の収益力が芳しくないなか、市場の要求は将来の収益力向上のための先行投資(設備投資、M&Aなど)と株主還元の強化へシフトする傾向がみられます。
しかし、いまの収益力不足は需要が乏しいことが根本的な原因なので、先行投資に見合う収益力の向上効果は期待できないケースが多い。むしろ、投資に伴う償却費などのコスト増加がさらなるROE低下へ作用する危険が高い。
ROE向上が現実的でないなか、企業統治改革での市場参加者から会社への要求は株主還元が重視されていくと想定されます。
今後の株主還元ではどのような点に注意したらよいのでしょうか?

企業統治改革のためのコーポレートガバナンス・コードの目的「会社の持続的成長と企業価値向上」をしっかり守ることです。そのためには、会社の株主への還元額が稼いだ利益(税引後の純利益)の範囲に収まる必要があります。
もしも、株主還元額が利益水準を上回った場合には、会社の資本(株主の持分かつ株主にとっての企業価値に相当)が資金流出超過となるため減少への要因。過度の配当に伴う資本の減少と企業価値の低下は、1916年の郵船の事例と同様に株価下落への要因なので、市場参加者にとっても大きなデメリットです(成長性指標で考える株主還元の留意点)。

日本郵船の利益分配をめぐる騒動が生じたのが戦争特需景気のもとでの大幅増益ラッシュ時であったのに対し、いまの会社は伸び悩む利益のなかから株主還元を行っています。
小さなパイをめぐり会社と市場との間での攻防が激しくなるなか、安定配当の株主還元方針を掲げる会社の利益が大きく下ぶれたとき、資本の減少に伴い企業価値ならび株価が急落するケースが目立ってきました。
これからの企業統治改革では、会社と市場の双方の損失につながる過度の株主還元はしないよう(させないよう)心がけたい!

アナリスト工房 2016年8月10日(水)記事

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*)「さえない経営者を攻撃してばかりいる米国人アクティビスト、ダニエル・ローブ氏ほどケンカ腰な態度でやって来る投資家はほとんどいない。(中略)彼は安倍首相、麻生金融担当大臣、黒田日銀総裁と非公式な打ち合わせのうえ、日本の首脳から大いなる奨励を受けている。(中略)投資収益を高めたい機関投資家が企業への要求をエスカレートさせることを促すかのようなコードに続き、それに沿った企業向けのコードが適用開始された。」
英エコノミスト誌 2015.6.6記事『日本企業 変化の風』